会報誌(DDKだより)

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2025年11月発行 第378号 DDKだより

巻頭:開かなくなった「東大赤門」


河原 八洋

 2年前に東大本郷キャンパスから発掘された埋蔵文化財について報告しましたが、今回は第2弾として、最近開く事なく、閉じられたままに成っている『東大赤門』について報告します。
 現在の東大本郷キャンパスの大部分は江戸時代の「加賀藩上屋敷」跡で、今から200年前、徳川家斉の娘、溶姫の輿入が決まった時、溶姫用の通用門として建てられたのが『赤門』です。溶姫は明治維新の後、金沢に移り亡くなったのですが、その後、主が居なく成っても赤門は壊されずそのまま残され、1871年屋敷は前田家から東京府へ、その後、文部省の管轄に入り、現在は東大本郷キャンパスと成っています。この「赤門」は当初『東大の正門』として、現在の正門が出来るまで使用されて来ました。ただ「赤門」は薬医門式という建築様式を採用している為、屋根の中心線と下の門扉の中心線にズレが有ります。門扉の正面方向に大きく揺れると外側に倒れる恐れが有るという構造なので、大学では、文化庁とも協議を重ねて、来年には耐震補強工事に取り掛かる予定を立てています。その為、現在赤門は閉められた状態に成っているのです。1923年の「関東大震災」では、周りは大破しても赤門は大きく壊れる事が無かったと、記録に残されています。それは偶然に揺れの方向が良かったのかもしれません。それから102年も経っているので、現在、慎重に耐震計画を立てています。次の危機は1945年の東京大空襲です。本郷通りを挟んで、森川町や本郷6丁目一帯が焼け、赤門も延焼の恐れが有ったのですが、建築専攻の学生らがバケツリレーで消火に当たり、寸前で食い止めた事が、帝大新聞に残っています。戦乱の中で、長く残った「赤門」の持てる運の強さでしょうか。災害は近年に成ってもありました。1968年~70年に掛けての学生運動です。東大構内では「赤門」だけ見ても、投石で170か所の漆が剥離し、屋根瓦7枚と金具5ヶ所が破損したと記録されています。今は過ぎ去りましたが、同時代生きて来た者にとって、これも消し去りがたい記憶です。
 現在計画している文科省の補助事業として、構造診断とそれに基づく補強工事が、2026年から本格的に開始される予定に成っています。「赤門」も少し構造を変えての復活に、期待したいと思います。