会報誌(DDKだより)

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2015年05月発行 第252号 DDKだより

巻頭:太田實海軍少将が泣いている

河原 八洋

 先日東京同友会が1984年から続けてきている沖縄県での求人活動に対して、翁長沖縄県知事より感謝状を頂いた。温和な方で、「若者人口が唯一伸びている沖縄だが、失業率は高い。そこで就業率を高める取り組みに力を入れている」と話されていた。30分ほど歓談させて頂き、帰りの便まで時間が有ったので、タクシーの運転手さんに、近くで見るところが有りませんかと尋ねると、那覇空港の傍の小高い丘の上の公園に連れて行ってくれた。
 なんでも海軍最後の司令部跡だそうで、斜面をかまぼこ型にくり抜いた横穴が指令室を中心に300mほど左右に続いていた。当時4,000人もの兵士がここを拠点に過酷な闘いに挑んでいた。4,000人も入ると寝る広さは無く、負傷兵以外は座って寝ていたという。沖縄戦での戦没者は日本側軍人で65,900人、米軍側で28,200人、軍人以外で日本軍の支援に回って亡くなった沖縄市民の方は、96,000人もいる。本土防衛の最前線として援軍も無い中、軍と共に県民挙げて悲惨な戦いをして来た。
 この状況は海軍沖縄司令官だった、太田實少将も良く分っており、いよいよ戦いも最期と悟った昭和20年6月13日、海軍次官あてに今までの県民の献身的な協力を述べ、『一木一草焦土ト化セン、糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ沖縄県民カクタタカエリ、県民ニ対シ後世特別ノゴ高配ヲ賜ランコトヲ』と最後の電報を打った。その後残った兵と共に壕内で壮烈な最期を遂げたと説明された。それを物語る様に壕の壁には飛び散った手榴弾の跡が無数に刻まれていた。  
 さて後世と成った今日はどうか、「沖縄に寄り添う」と言って憚らない安倍首相や菅官房長官は先の選挙では1度も沖縄には入らず、当選した翁長知事が上京しても会いもしなかった。知事選で負け、総選挙でも全選挙区で負けても、『争点は基地問題では無かった』と平然と言い切る。自民党が勝っていたら『民意が示された』と鼻高々に言い切る事だろう。その様な事では、後世を託されたはずの日本国の指導者として犠牲に成った県民と太田少将に顔向け出来るはずがない。