組合員の皆様、あけましておめでとうございます。
 昨年、四谷でお寺の仕事をしました。約1年をかけて、庫裏(住職や家族の居間)と客殿を建て直しました。鉄筋2階建てで、外壁を石とガラスで造り、とてもお寺には見えません。檀家の為の客殿は、申し訳程度に1部屋ありますが、副住職(息子)との2所帯住宅です。誰か指南をしているのではないかと疑うほど、最近はこの手の物が多くあります。仕事とはいえちょっと遣り切れない気持ちでいましたら、タイミングよく九州国東に行かれている無着老師から手紙がきました。
  「今年は柿がたくさんなりました。それを鳥が突っついて食べていましたが、とうとう鳥も飽きてしまったらしくまだ残っています。残った柿が熟しきってペチャッと落ちてきます。お釈迦様が悟った『生老病死』の法則が柿の実にもピタリ当てはまるなーなどと感心していました。
 お釈迦様は『四門出遊』で出会った『生老病死』こそが、お釈迦様、生涯のテーマだったのです。
 産まれる事も、生きることも自分の意思ではない。年を取りたくないと思っても年をとる。病気をしたくないと思っても病気をする。死にたくないと思ったって死ぬ。つまり自然の法則、大宇宙の生理現象は総て人間の自由にならないのだ。
 それを自由にしようと思った瞬間から『苦』が始まる。つまり『苦』とは、人間の思いどおりにならないことを指すのだ。その様な大宇宙の生理現象をお釈迦様は、『ほとけ=』と悟ったのだ。『ほとけ』とはお釈迦様の悟った世界のことで、悟られたお釈迦様は、『ほとけ』なのだ。(中略)
 お釈迦様は、『そこを悟れば楽になる』とも言っている。そうすると佛教とは、『楽に生きる教えだ』といってよい。
 日本のお坊さんはそういう事を語らなくなって久しい。浪花節も、講談も、落語も謡曲も・・・ぜーんぶお寺で語られ、説教の中から発達したものだ。昔、お寺は学校であり、演芸場だったのだ。葬式や、法事の会場ではないのだ。」
 カネボウの決算を監査法人や会計士が見逃し、建築士が利益のために偽装する。各々が持っている大切な社会での役割が『損と得』との座標中で、崩壊してきていますが、人間性を生かした経営をしていきたいものです。
 
無着成恭老師からの手紙
理事長 河原 八洋